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2016-12-05
ツキノワグマ報道の功罪
- 2016-12-05 (月)
- くまもりNEWS
私の住む岩手県では、マスコミや行政によって多くの県民に「ツキノワグマ=凶暴生物」という図式が浸透し、本来の生息地であっても見かけただけで通報するという行動様式が定着しています。そのために年々「出没件数」が増加し、「有害」駆除されるクマが増えています。
私自身は、本格的にツキノワグマの生態記録を始めてから10年以上になります。これまで多くのクマと様々な出会い方をしてきましたが、ツキノワグマが危険な生物であると感じたことはありません。
むしろ、とても用心深い臆病者で人間のことをよく見ている知的レベルの高い(犬よりずっとかしこい)動物であると確信するに至っています。
ツキノワグマをはじめ多くの動物は、人間と生息域が折り重なったり隣接したりしています。人間は経済活動によって自らの生命を維持していく生き物ですから、野生動物の生息域でも資金を得るためには遠慮無く侵入していきます。そのために彼らとの軋轢が生じ、人の側が不利益を被ると「被害」を受けたと喧伝します。
今年の初夏に起きた秋田での悲劇(人にとってもクマにとっても)はその象徴であると私は思います。ちなみに、例年、クマとの遭遇により命を落とす方の数は、スズメバチに襲われて死亡する方よりかなり少なく、クマの事故がことさらにセンセーショナルに扱われる理由が何なのか、理解に苦しんでいます。
今夜のテレビ番組でツキノワグマがどのように扱われるかはわからないのですが、これまでも多くの報道番組に映像を提供してきた経験上、だいたいの想像はつきます。
番組制作に関わるほとんどの方々は、出会うことすら難しい生き物であるツキノワグマを実際に観察したり見たことがありません。そのような方たちが作る報道番組がツキノワグマの真の姿に迫ることは困難であると思います。
そのような番組に、おまえはなぜ映像や画像を提供しているのか、という声が聞こえてきそうですが、その生態のごく一部に過ぎないものの、人を避け、山野に懸命に生きるツキノワグマの姿を知っていただくために続けています。担当者の方とのやりとりも、クマについての認識を変えていただくことに少しは役立っていると考えています。
マスコミ関係の皆様には、「凶暴、殺人」などの用語や不安感を煽るような音楽の使用を控えていただき、クマという生き物に対する正しい認識を持つ方々の知見を重視し、正しく反映した報道を切望しています。
毎年、数千頭のクマの命が奪われている状況を当たり前のように受け入れている国民感情を作り出している原因の一端は、報道の在り方にあるからです。
クマとはどんな動物か アイヌ最後のクマ撃ち 姉崎 等 氏
- 2016-12-05 (月)
- くまもりNEWS
<※姉崎等氏の著書「クマにあったらどうするか」から要約>
クマは怖い動物ではない。元々臆病な動物だ。クマは人間が怖い。
クマが人を襲うのは、クマが人に襲われると思った時で、本来は人を襲わない。どっちかというとクマはおとなしくて平和主義者です。
(共存するための棲み分けラインを)クマは守ってきたけれど、人間は守らなかった。ルールを守るのはクマ、守らないのは人間だ。
今は、山菜採りだとか渓流釣りだとかで、人間がクマのエリアに大勢入り込むようになり、クマがかわいそう。クマが悪いんじゃなくて、人間が全部原因を作っておきながら、クマを悪者にしている。クマは危険なものだという考えを改めないといけない。
クマは確かに腕の力も爪の力もすごくて、その気になれば一撃で馬も倒せる。それによって、獰猛だというイメージが作られているけど、人間を食おうなどとは考えてもいない。一番悪いのは、知ったかぶりしてクマは獰猛という人間だ。
クマが死体を食べるのは、動物の本能。
クマはクマなりの存在価値があって、この世になくてはならないものだと思う。
<片山龍峯氏のあとがきより>
(クマなどいなくてもいいというヒトがいるが、)一撃でヒトを倒すことのできる強烈な力の持ち主がこの世に存在することを知ること、ヒトがそれに畏れの心を抱くこと、それはヒトが思い上がり、暴走するのを抑制するのにどれほど役立つことだろうか。
2016年 ツキノワグマが大量に殺処分されていた
- 2016-12-05 (月)
- _野生動物保全
今年は、山の実りが悪いと言っても、近年に過去3回あったような、ありえないまでの異常凶作年ではありません。であるのに、熊森本部の全国都道府県への電話聞き取りでは、現時点でわかっただけでも、秋田県の470頭を筆頭に、全国で有害捕殺数されたツキノワグマの数は、合計2924頭にものぼっています。この時期、秋の有害捕殺数集計がまだ出ていない県がいくつかありますから、捕殺総数は、まだまだ増えるものと思われます。
今年の春、秋田県のネマガリダケ採取現場で起きたクマによる死者4名の事故が、「クマは凶暴、殺すべし」という流れを全国に作ってしまったのでしょうか。
<西日本での2016年クマ有害捕殺数>単位:頭
滋賀県0、京都府54、兵庫県29、鳥取県69、岡山県10、
広島県46、島根県94、山口県21
今春の秋田の事件の時、クマ研究者を名乗るコメンテーターの人食い熊、殺人熊、凶暴グマなどという言葉を、裏付けも取らずにセンセーショナルに全国に流したマスコミの責任は大きいと思います。これらの報道が、本来の臆病で平和的なクマ像を、すっかりゆがめてしまいました。
神のみぞ知るですが、わたしたちは、秋田で今年、人食い熊や殺人熊、凶暴グマが誕生したとはとても思えません。
人間が至近距離にいるのに気づき、クマが恐怖のあまり逃げようとして一撃をくらわしたら、人が亡くなったということも考えられるのではないでしょうか。その後に、現れた別グマが、死体を見つけ、森の掟に従って、片付けようとして食べた。こんな推理も成り立つのではないでしょうか。(現地近くで射殺されたメスグマの胃内容はほとんどがタケノコで、少し人肉が入ってたという報道から想像)
シカの死体を食べるクマ
山に放置されたシカの駆除死体のそばに自動撮影カメラを掛けると、クマを初め、イノシシ、キツネ、タヌキ、テンなどいろいろな森の獣、猛禽類、ハチなどの虫たちが次々とやってきて食べ、片付けてしまいました。大昔から連綿と続いてきた森の掟です。
クマは現在、草食動物に近い食性となっていますが、シカなどのように完全な草食動物ではなく、本来は人間と同様、雑食動物です。他の動物の死体はもちろん、川魚などが豊かであった昔は、魚も採って食べていたと思われます。
岡山県、鳥取県、京都府へ 現時点でのクマ狩猟再開検討は余りにも短絡的
- 2016-12-05 (月)
- _野生動物保全
日本に狩猟文化を広めたいと考えている国立大学の研究者グループがあります。自身もハンターなのでしょう。
かれらは環境省を動かして、ここ数年来、「すごいアウトドア」という、狩猟推進キャンペーンを全国で繰り広げてきました。しかし、生き物をスポーツやレジャーで殺して楽しもうという文化は、日本人にはなじみません。明治になるまでの1200年間、殺生禁止令だ出続けていた国の国民ですから、無理ないでしょう。
よって、思うようにハンターが増えませんでした。つまり、大多数の民意に反しているのです。
数年前、兵庫県庁の出先に行くと、まだ30代と思われる若い男性の鳥獣担当者が出て来て、「私は狩猟学の権威です」と言うので、兵庫県はこのような人を採用し始めたのかと驚きました。
熊森本部のある兵庫県の兵庫県立大学には、どういうわけか狩猟派の研究者が次々と送り込まれてきて、県行政と一体となり、マスコミを大動員して、狩猟文化やジビエ料理がどんないいことかのように大々的に宣伝し続けています。(国民洗脳)
また、彼らは、野生動物を狩り、その肉で犬や猫のペットフードをつくろうという海外の大きなペットフード会社とつながる動物愛護団体?とも大々的につながっています。(原料がただなので、儲かるかもしれないナ。利権構造が見える?)
かれらは、野生動物を論じる時に一番大切な、生息地の自然環境がどうであるかにはあまり関心がないようにみえます。兵庫県のクマ推定生息数をコンピューターで計算して940頭に爆発増加したとはじき出した元兵庫県森林動物研究センターの研究者に、「集落周辺の目撃数や捕獲数だけではなく、奥山を調べましたか」と尋ねると、「調べていません」という答えでした。
かれらは、兵庫県のクマたちの本来の生息環境である奥山の自然は大変豊かで、山の中にはクマがいっぱいおり、問題なしとし、今年、兵庫県行政をクマ狩猟再開に導くことに成功しました。そして、かれらは1か月間で140頭のクマを兵庫県で狩猟するというシナリオを描きました。
一方、熊森は、クマは大荒廃した奥山から出て来て里に集まっており、山にはほとんどいないと主張しています。何人もの猟師や地元の人達が、同じことを言われています。
確かに今、クマは山から出て来て、地元を困らせています。しかし、その現象だけを見て対策を論じるのではなく、なぜ出て来るのか、原因を見極めることが大切です。爆発増加したからなのか、そうだとしたらその原因は?山が荒廃する一方だからか、そうだとしたらその対策は?
原因の特定を間違えれば、打つ手は全部外れてしまいます。原因究明が大切なのです。
岡山県、鳥取県、京都府の知事や行政は、今しばらく狩猟再開を検討することをお待ちください。兵庫県クマ狩猟再開結果が12月14日に出ますから、それから検討されても、遅くはありません。
自然界はそれ自体が、本来バランスのとれた完結社会です。唯一、自然界からはみだして生きる現代人という動物が、明治期に西洋からもたらされた、スポーツやレジャーで野生動物を殺して楽しむ「狩猟」を今後も認めるのかどうか、国民的議論を大いに高めるべき時だと思います。